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職場の人間関係や
家族との折り合い、
友人との付き合いなどの中で
“みんなストレスをかかえている”
とは認識していても、それが
“相手にとってどれほどのダメージとなっているか”
考えてあげること、できていますか?
1つの出来事を、
誰しも同等のサイズ感で感じているとは限りません。
人には誰でも向き不向きがあるからです。
例えば職場でのストレスに例えてみましょう。
山田さん佐藤さん井上さん
この3人が共に働く職場で
この3人が共通して抱えるストレスがこの3つだとします。
「A:仕事量が多い」
「B:上司の当たりがきつい」
「C:同僚のタイピング音がうるさい」
山田さんは、
誰とでも仲良くなれる社交性を持っており
自分に対してキツく当たってくる上司もストレスですが、
「A:仕事量が多い」
ことが、
おしゃべりで息抜きをする時間が
取りにくいため一番ストレスに感じています。
佐藤さんは、
アイデア力のあるとても穏やかな性格で
近くの席から聞こえる過剰なタイピング音もストレスですが
「B:上司の当たりがきつい」
ことが、
自分を全否定されているような気持ちになり
とてもストレスに感じています。
井上さんは、
どんな仕事でも難なくこなせるため
やってもやっても終わらない仕事もストレスですが、
「C:同僚のタイピング音がうるさい」
ことが、
自分の集中を妨げられてストレスに感じています。
このように、
全員に共通したストレスがあったとしても
それぞれの人間の持つ性格や捉え方によって
“どんなことが強く苦痛に感じるか”
は、当然大きく違ってくるのです。
筆者は学生時代にこんな経験がありました。
朝、学校に登校すると
クラス中が大騒ぎとなっていました。
クラスメイト数人の机の中から
教科書が数冊づつ抜き取られ、
廊下のゴミ箱の中に入れられていたというのです。
様々な反応をする人がいました。
・教科書を捨てられた数人の共通点を探す者
・犯人を特定しようとする者
・とにかく怒っている者
・野次馬のように楽しんでいる者
・ひたすら泣いている者
筆者の教科書もゴミ箱の中に捨てられていたため
当事者なのですが、
なんとも思いませんでした。
そして、
その行為がとてもアホらしく思え、少し笑ってしまうと
「・とにかく怒っている者」から少し怒られました。
確かに自分の教科書が、
“誰か”から捨てられていたとすると
頭にくるのも分かりますし、
ひどい!と悲しい気持ちになるのも分かります、
自分は関係なかったら面白半分で
首を突っ込みたくなる気持ちもわかるし、
とにかく犯人を探そうとする気持ちも分かります。
ですが、
繰り返し起こったならまだしも
たった1回起こったこと。
更には複数人がターゲットとなっていることと、
失ったとしても代わりのきく教科書ということで
私は、なんとも思いませんでした。
ですが、同じように
ターゲットとなった友達は
“自分は誰かに嫌われているんだ”と
深く傷ついていた人もいます。
なんとも思わなかった私が
大人になって今でも覚えているということは、
その時とても傷ついて泣いていた友達は
今だにその時のことを思い出して、
暗い気持ちになっているのかもしれません。
このように同じ境遇にあったとしても、
人によって捉え方、感じ方、考え方は人それぞれです。
「たったそれだけ?」
「気にしても無駄無駄!」
「無視しとけばいいじゃん。」
「いつまでもクヨクヨしてないで!」
「悩んだってしょうがないよ。」
なんて、
何気なくかけてしまいそうなそんな一言で
“誰もわかってくれない”
“自分が変なんだ”
“それが出来たら苦労しないよ”
“私には大きな問題なのに”
と、相手は感じ
さらに追い込んでしまうことも十分にあり得ます。
確かに、考えても仕方のないことは
忘れた方がいいよ!と
アドバイスしたくなるもの。
そんな時は言葉だけでなく
真摯な態度で示してあげる事が
とても大事となってきます。
“忘れさせてあげるために、
自分は何がしてあげられるのか”
そこまでを考えてあげられなければ
「忘れた方がいいよ!」なんて、
とても軽い言葉でしかありません。
多くの人が、自分の感性を
世間の平均だと思ってしまいがちです。
ですが当然、
全く同じ感性を持つ人間なんて
この世に存在していないと思ってよいでしょう。
全ての出来事を自分の型にハメて考えるのではなく
相手に寄り添った考え方ができなくては、
よい仕事、
よい生活、
よい人間関係はどれも
そう長くは続けられないと言えるでしょう。