PexelsのMaLeK DriDiによる写真
先日、交通事故にあった女性が
道端に倒れている状態で救急車を待っている動画が
ネットニュースにあがっていました。
この動画に写っている人は、
“事故にあった女性”
“女性に駆け寄る人”
“道端から眺めている人”
この3人だけ。
とはいっても、その現場には
確実にもう1人いたはずですよね。
“動画を撮影している人”です。
当然、怪我をしている女性を
遠巻きから撮影をしていると思われる
動画提供者には批判の声が多くあがっていました。
そして、同じように
“道端から眺めている人”にも批判の声があがっていました。
「どうして応急処置をしないんだ」
「せめて駆け寄ってできる事をすべき」
「何もできないなら野次馬するな」
本当にそうだと思いますし、
動画を撮影している人物に至っては
どんな理由があろうと
人格を疑ってしまうものです。
とはいっても、正直、
“道端から眺めている人”の気持ち
わからないこともありません。
何かしたいけれど何をして良いのかわからない
近寄っても邪魔になるだけかもしれない
だけど自分にできることがあればと思っている
救急訓練は受けたことあるけどちゃんと覚えていない
だけど誰かがするべき状況であることはわかる
荷物をよけておいてあげようか
だけど警察が実況見分するはずだし触ってはダメか
声をかけたほうがいいのだろうか
だけど本人はとても辛そう
動画を撮っている人がいる
Twitterなどにアップするのか
あまり近寄ってしまうと動画に映ってしまう
自分が経験もないのに救急訓練のような事をすると
間違っているなどとネットで叩かれることになる
下手に荷物や散らばってしまったものを片付けても
盗もうとした、触るな、などと批判されそう
心の中に人を思いやる気持ち、
善意があったとしても
人から誤解をされ
人から批判される事を恐れて
自分が今、人としてすべき行動が取れない。
そんな人がとても多い世の中だと思います。
例に挙げた交通事故は、
人の生死に関わる大きな出来事ですが
小さなことでいうと
“道端に1人で泣いている子供がいる”
という状況でも同じことが言えるでしょう。
近くに誰もいないけど迷子かな?
警察に連れて行ったほうがいいかな?
変な人に連れて行かれないようにしてあげないと。
声をかければ何か分かることがあるかも。
だけど、
話しかけている最中に親や警察が来て
こちらが不審者だと思われたら?
親からSNSに、
“気持ち悪い人に子供が話しかけられた”
“子供が誘拐されそうになった”
なんて書かれたら?
いい事をしようとしても
誤解されると自分が不快な思いをする。
近くに住むお節介な人がどうにかしてくれるだろう。
そう思いその場を立ち去る人、
多いのではないでしょうか。
SNSなどの普及によって、
芸能人、著名人でなくとも
呼びかける発言のパワーが
1つ1つとても強くなっている近頃。
当然、そのことによって
自らでは知り得なかった知識が身についたり
自分では気付けなかったことにでも
注意を配ることができたりと、
快適にスムーズな生活を送るための
便利なツールとなっていることに間違いはありませんが、
その反面、
“する必要のなかった心配”にまで
気を配らなければならなくなったのもまた事実。
自分の善意を、
自分の危険回避能力で打ち消してしまう。
そんなことが、
「よくあること」
になってしまっているように思います。
そんな「よくあること」。
はじめのうちは、
“あ〜もっとああしてあげればよかったかも”
と反省や後悔ができていても、
似たようなことが繰り返し
身に降りかかることによって、
次第に心がなにも反応せずに
見過ごせるように、「慣れてしまう」というのも
人間の持つ”忘れる力”の作用だと筆者は思うのです。
「慣れてしまわない」「振り返る」「忘れない」
「もっといい方法を考える」「次に活かす」
これらが出来るのは、
“心がけ”を忘れていない人間だけ。
1人でも多くの人が、
「慣れてしまわない」よう
「思いやる心」を忘れないよう
そして
ネット上や仲間内で、もし
”晒されている人”がいたとしても
もしかすると・・・
それは誤解なんじゃないだろうか
こうしようとしたのかも
と、
「疑う気持ち」「別の可能性を考えること」
が出来ると、
もっと”生きやすい社会””優しい世界”に
なっていくのではないでしょうか。
「ネット上・デバイス上の写真・動画」なんて
たかだかサイコロの上、
1面しか見えていないような状態。
真相なんて誰にも分かりやしないのです。
それならば尚更、
自分の心を穏やかに保てるような考え方を
して生きていくのも、
“自分のため”
なのではないでしょうか。